351.話したい・書きたい

351.話したい・書きたい
「知的障害児者、発達障害児者 個性と可能性を伸ばす!」: 造形リトミック教育研究所

 自分の中から溢れるように表出する言葉、それは話し言葉だけではありません。書き言葉もあります。

「・・・お母さんはいつも毎日優しくて、いきなり怒られて、家族や親戚まで怒られました。
 おじいちゃんの面倒を見ていた。ところがお母さんは勉強をしないでおじいちゃんから怒られた。
 勉強しないでおじいちゃんに怒られて今度はお母さんがすごく怒ったのに、
 人を怒られるのがいやだなあと皆さんには迷惑をかけて申し訳けありません・・・」

 生徒さんがパソコンに打ち込んだ長い文章の一節です。この話は、日頃から口頭でもよく出てきます。文法的には接続詞や副詞も適度に出てきて受動態も使いこなしていますが、主語と述語の組み立てや助詞が適切でないために伝わりにくく、推測しなくてはならないところがあります。

 しかし、この生徒さんの息遣いや気持ちの流れ、勢いといったものはしっかり伝わってきます。本来のこの生徒さんのユーモラスな面も感じられ、文章自体はかなり怒っているのですが、最後で「ふっ」と笑ってしまいます。

 もちろん、言語学習としては赤ペンを入れなくてはならない箇所がたくさんあります。また講師としては、
「これまで、なに指導してきたの?」と咎められそうですね。でも、
「ここまで育ったんですよー!」と誇りたい気持ちもあります。

 赤ペンを入れることも必要です。しかしその大前提として、まず書き手の心を受け止めましょう。その心を受け止めたら、こちらも心から返しましょう。それが、コミュニケーションです。

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なかのひと

350.コミュニケーションって

350.コミュニケーションって
「知的障害児者、発達障害児者 個性と可能性を伸ばす!」: 造形リトミック教育研究所

 言語学習とコミュニケーション学習とは重なるところがありながら、異なるところがあります。もちろん言語を用いないノンバーバルナコミュニケーションもあります。しかし、通常のバーバルコミュニケーションにおいても、言語学習イコールコミュニケーション学習ではないのです。

 言語があってはじめてコミュニケーションが成立するとすると、やはり言語のない生徒さんとはコミュニケーションが出来ない、ということになってしまいます。すると、数日前にお話した研修生のように、「あのお子さんは言葉がないので・・・」ということになってしまうのです。

 発語のまだない生徒さんとも、言語を通してコミュニケーションをしていきましょう。生徒さんの息遣いを感じながら、生徒さんの存在を感じながらコミュニケーションをとっていけば、伝わります。生徒さんからも、返答や語りかけがあります。生徒さんからの返答や語りかけ感じとっていきましょう。

 「語る」とは、また「相手に言葉をかける」とは、思いや気持ちを相手に橋渡すことです。人は感情が動くときに言葉を発します。ですから、構音や文法能力がまだ発達しきらなくとも、また十分に備わっていなくとも、話したくてたまらないという生徒さんたちがいます。それほどの気持ちの動きや流れのあることは、私はとても良いことだと思います。

 多くの生徒さんはそんな時、言葉の前段階の声を出します。笑い声を立てる場合もあります。中には、抑揚だけで話すような段階もあります。幼児期のジャーゴンもその一つです。語彙も構音や文法能力もまだ不十分であるのに、一人前に話をしようとしている状態です。絵で言えば、なぐり描きの段階です。文字でもそうです。大人気取りで鉛筆を持ってめちゃくちゃ書きをしている段階です。

 でもその気持ち、志向、勢い、発信を大いに認めて、応えていってあげたいものです。教育に携わる立場では、このようなコミュニケーションの本質的なあり方に感じ、気づいていきたいものと思います。

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349.語りかける

349.語りかける
「知的障害児者、発達障害児者 個性と可能性を伸ばす!」: 造形リトミック教育研究所

 日曜日の新刊の欄(2009年12月6日読売新聞)に、山折哲雄「いま、こころを育むとは」が取り上げられていました。書評の冒頭に、「・・・全共闘の息の根をとめたのは、俵万智『サラダ記念日』だと説く」とあり、「えっ、どういうこと?」と思いつつ続きを読むと、その意図するところがすーっと浸透してきました。

 少々長くなりますが、私の拙文ではお伝えしきれないものですので引用させていただきましょう、
「・・かつて紛争の嵐が吹き荒れたキャンパスで聞く学生の演説は、なぜ、心に響いてこなかったのか。それは、五七調や七五調と違う[われわれは、日帝の]式の”五五調”だったから。万葉集に始まる和歌のリズムこそが、日本人の呼吸や生命の根源なのではないか。女性歌人の人気沸騰の陰には、あのリズムの回復を待望する国民の<渇くような思い>があったはずだ」

 学生運動の真っ只中だった頃、私は小学生でした。何かの雑誌の取材で学校で数人が選ばれ、インタビューに応じたことがあります。そこでどういう質問に対してであったかは忘れましたが、私が「全学連のー、ことはー、よくー、わかりませんがー、・・・」と何らかの返答をしたようです。その語調がこっけいだったのか、その後、父にさんざ茶化されたのでこの何語かだけが今でも思い出されます。

 その頃のテレビニュースを見ていて、彼らの”五五調”のようなものが移ってしまったのでしょうか。語調というのは、すぐに人に移りやすいものです。それと同時に彼らの気持ちの高揚のようなものも多少入り込んでしまっていたのかもしれません。「学生運動」と聞くと、語調も気持ちの持ちようもパッと切り替わってしまうのです。言葉には、良くも悪くもそんな力があります。

 いかがでしょう?私はさらに、日頃の授業での生徒さんへの言葉かけも振り返りました。
「さあ、数えるよ!よく見て!ずれないように!1、2、3、・・はい、ぜんぶで!」と一方的に言葉を発していることはないでしょうか?
ご家庭ではいかがでしょうか?
「さあ、時間よ!かばん持って!くつはいて!ほらっ、よく見て!」と一方的に言葉を発していることはないでしょうか?
生徒さん、お子さんはどんな言葉を渇望しているのでしょう。

「なぜ、心に響いてこなかったのか」・・・日常で五七調や七五調で言葉をかけることは難しくとも、呼吸や生命の根源をふと意識することはとても大切なことですね。「数えるよ!」「算数!」・・・と聞いただけで、生徒さんの気持ちがパッと堅く切り替わってしまうことがないように。むしろ「先生といっしょだからわかるよ」と生徒さんの中に安心感と意欲・興味がひろがるような言葉がけを日頃からこころがけたいものですね。

 
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なかのひと

348.伝わってる?

348.伝わってる?
「知的障害児者、発達障害児者 個性と可能性を伸ばす!」: 造形リトミック教育研究所

 私達は通常、分からないと思って話しかけているのではなく、わかるだろう、伝わっているだろう、という前提で話しかけています。

 たとえば母親は、言葉をはじめて耳にする赤ちゃんにも、伝わっているということを疑わずに話しかけています、「おはよ!」「いい子ね~」「おいしいおいしい」・・・などと。だから赤ちゃんは、やがて言葉を獲得していくのです。

 人間には、文法を獲得して言語を繰る機能が生得的に備えられているとは言え、思いをかけて話しかけられることなしでは、言語機能は育ちません。

 私達は、犬やネコ、ペットにも同じ思いで話しかけます。時には、花や木に話しかけることもあるかもしれません。それは、犬やネコ、植物に生き物としての共感性持つからです。子どもは、物に対しても話しかけることがあります。子どもには、物にも命があるような感覚があるのでしょう。それは、全てのもに霊(anima)が宿るというアニミズムに通じるものです。何れも、言葉よりも、気持ち、気息、生気といったものが優先されているコミュニケーションです。

 私自身、発語のある生徒さんにもまだ無い生徒さんにも同じように言葉を通してコミュニケーションをとります。その時、生徒さん自身に発語が有るか無いかは意識に上っていません。今こうして改めて振り返れば、「同じように」と言っても、
無意識のうちに、こちらも声の出し方やテンポを調整しているのだと思います。同時に、表情や仕草や動作も変えているでしょう。

 一方的に、機械的に投げかけた言葉は届かなくても、共感性を伴って発した言葉は伝わります。日々の生徒さんとのコミュニケーションにおいては、こちらの言葉の働きにも磨きがかけられます。

 

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nan

347.言葉って?

347.言葉って?
「知的障害児者、発達障害児者 個性と可能性を伸ばす!」: 造形リトミック教育研究所

 「○○くんは、言葉がないから」とか、「○○ちゃんは、話さないんです」、というような発言を研修セミナーで時おり耳にすることがあります。しかし、生徒さんが言葉を発しないからと言って、コミュニケーションが成立しないわけではありません。

 きのうこのブログで、ワシントン大学法の講演会の時のお話をしました。そこで行われた、ダウン症児のための早期プログラムのデモンストレーション。日本のダウン症のお子さんを対象に行われたのですが、もちろん、v.ドミトリーブ先生は英語で話しかけられました。お子さんにとっては、おそらくはじめての英語です。しかし、コミュニケーションは成立し、プログラム課題は先生の意図されたように進められました。

 「どうせ英語は分からないだろう」と言うような思いはまずもたれず、そのまま英語で指導されました。言葉を介しながら、目を見て、表情や動作で先生の意図することを示していきます。英語自体は分からなくても、言葉は通じるのです。言葉とは、そういうものです。

 今朝の教室ブログは、「気持ちをことばにのせて」というテーマでしたね。まさに、そのとおりです。「気持ち」以前の、「意識」をのせて、「生気」をのせて、と言ってもいいかもしれません。北原白秋の詩集にもありました、生まれて程ない赤ちゃんの息に新しい命の生気を感じるといった詩が(どこかで出会った詩で、出典が不明なのですが)。

 コミュニケーションの原点は、自己と他者が生気を交わすことにあります。

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346.失敗させないように

346.失敗させないように
「知的障害児者、発達障害児者 個性と可能性を伸ばす!」: 造形リトミック教育研究所

 もう20数年ほど前のことになりますが、ダウン症児の早期プログラムを実践し世界的に普及されたv.ドミトリーブ先生を研究所にお招きして講演会を行ったことがあります。講演の中で、教室のダウン症の生徒さん(4才位だったでしょうか)が
ステージに上がって、先生にプログラムのひとつを実践していただきました。

 課題は、積み木をカップに入れることだったか、なにかものを取り出すことだったかは忘れてしまいましたが、はじめての子どもに対してもまるで前からよく知っている子どもであるかのような対応ぶりで、先生の優しいまなざしと子どもさんのかわいらしさだけが今も印象として残っています。ほんの数分ですが、広い会場のステージに作り上げられた、先生と子どもさんのあたたかい世界が記憶の中に浮かんできます。

 その先生がおっしゃったことで、今でも日々の授業の中で思い起こされることがあります。それは、課題に対して子どもが失敗しないように指示をしましょう、ということです。

 たとえば色の取り出しで、赤・青・黄・緑の4つの積み木を並べて、「○色の積み木をください」という課題があります。その時にまず、一つずつ積み木を指で触れながら、そして子どもの視線を確認しながら、「これはあか」、次の積み木に触れながら「あお」、次の積み木に触れながら「きいろ」・・・といっしょに確認をしていきます。そして、さいごに確認した色の取出しからさせるのです。

「これは、あか、あお、きいろ、みどり。さあ、みどり ください」という具合に。

 数の学習においても、文字の学習においても同じことです。基礎学習に限らず、教科の学習やその先の学習についても言えるでしょう。熱心になるがゆえに、「これは?」とか「どっち?」とか「よく考えて!」とか迫りがちですが、ことに「学習」というもの自体への導入の段階では、ゆっくりとじっくりといっしょに課題にとりくんであげましょう。ものを並べたり、入れたり、取り出したり、ものの操作をいっしょに行ってあげましょう。しだいに手は添えなくても、気持ちはいっしょに行ってあげましょう。

 ことばよりも態度とまなざしで指示をしていきましょう。先ほどのステージでの子どもさんとのコミュニケーションも日本の子どもに対して、先生は英語でなされたのですから。

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345.1個ずつ、1個ずつ

345.1個ずつ、1個ずつ
「知的障害児者、発達障害児者 個性と可能性を伸ばす!」: 造形リトミック教育研究所

 秋から初冬の今、落ち葉拾いやどんぐり集めは、太陽の光を浴び、ピリッとした空気や風の冷たさを感じる格好の楽しみとなります。それと同時に、数の存在を感じ、数感覚を育むとても良い機会ともなります。

 机の上に積み木やミニチュアの果物などを並べて、いきなり「これはいくつ?」と尋ねたり、「~を ○つください」などと指示を出して数の理解をさせようとしても、なかなか数概念を獲得できないことが多いものです。心理テストで数の理解度を測るのならばそれでもよいのですが、数概念を育てるための学習として行うのならば、これは得策ではありません。

 数えることを求めたり、合計数を答えさせようとする前に、1個ずつ、1個ずつというものの操作やものの移動を遊びとしてたくさん行いましょう。カップの中に何かものを全部入れる、入れたらまた全部出す、そしてまた入れる、また出す・・・、ものの増えたり減ったりを自分の操作を通して心いくまで体験させるのです。

 発達テストの中に、カップの中に積み木を10こ入れさせたり、ものを並べて遊ぶようなことがあるかどうかを尋ねたりする項目があります。たいていの幼児は幼児期に、自然に遊びとしてそんなことを行っているからです。そんな遊びを通して、数感覚を獲得していっているのです。

 発達テストことにスクリーニングテストは、まずは被検児が通常の基準どおりに発達しているかを測るものですから、通常の幼児が発達のプロセスでたいてい行うこと自体がテスト項目となっています。言い換えれば、発達テストで問われる課題はたいていの幼児が通過していく課題です。

 ハンディのあるお子さんは、幼児期にまだ手先が器用でなかったり、集中力が十分でなかったり、ものの認知が明確でなかったりするために、このような遊びの時期を通過することなく、いわゆる「数学習」へと突入してしまうことがあります。ですから、いっそう数学習の進みが鈍くなってしまうのです。悪くすると、数ぎらいにさせてしまいます。

 数ぎらいにさせずに、1ステップずつ数の学習を進めていくためには、このたいていの幼児が行う遊びを十分に行うチャンスを作ってあげましょう。尋ねたり指示したりと迫らずに、ものを移動させたりものを並べたりすることを一緒に楽しんであげましょう。このような遊びの中で、数学習にとって不可欠な数感覚が育まれていくのです。

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344.イチョウの葉っぱ

344.イチョウの葉っぱ
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 あすから12月というのに、木々の葉は赤に黄色にとまだまだその美しさを楽しませてくれています。

教室では、イチョウの葉を折り紙で切って、貼り絵をしました。黄色は白い机の上に1枚取り出しても、それだけでまぶしいほどの色ですね。その印象をもって、きのう本もののイチョウを見ると、さらにその色の輝きに驚きました。落ち葉の黄色もまるで雪の世界かのようにまぶしく輝いていました。黄色がこんなにも目から顔面にそして体の中に飛び込んでくるようなインパクトのある色かと、あらためて感じました。

 生徒さんの中にも黄色の好きな方が少なくありません。ある生徒さんは、いろいろな黄色でイチョウを描き、その下の道も全部黄色で塗ったと聞きました。

 秋から冬の一日、お子さんとイチョウの葉っぱを1枚1枚拾って集めてみてはいかがでしょう。1枚拾っては袋に入れ、また1枚拾っては袋に入れる・・・。「1枚ずつ」という体験をしてみましょう。こんなそぼくな動作が、私達の生活環境に
たくさんある「1」ということを感得させてくれます。すべての独立したものには、個数があります。1個であつたり、2個であったり・・・・、それが少しであったり、たくさんであったり、かぞえきれないほどであったり。

 1枚、1枚、1枚、1枚、1枚・・・、1枚がたくさん集まって、「たくさん」になる。数概念より以前の数感覚は、幼児のような遊びの経験を通して獲得されていきます。1つずつ箱にものを入れたり、箱からものを出したり、右にあるものを1つずつ左に移したり、1つずつ何かを並べたり・・・。

 1個、2個、3個・・・という個数の前に、1個ずつをたくさん経験して数感覚を身につけていくことは数学習の素地作りとしてとても大切ことです。そこを飛び越えて個数の学習に飛び込んでしまうと、数概念の獲得がなかなか容易ではないことがあります。

 遊びを通して「1個」の体験をくり返し積み重ねていきましょう。1個ずつ手にものを握って移動させる、幼児が夢中になって行うこの際限のない動作のくり返しが、実は数学習の基礎として欠かすことのできない大切な体験となっているのです。

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343.捨てちゃった?!

343.捨てちゃった?!
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 きょうの授業「お金の管理」から:

 お金の管理の学習のために、レシートの貼り分けを毎日行っている社会人の生徒さんがいます。A4用紙の半分のスペースに1日分のレシートを少しずつずらして貼り重ねていくのです。その欄の下には、その日の合計金額を書き、1日の予算の中に納まっているか、オーバーしてしまったかを自己チェックします。

「予算-使った金額」が、プラスだったらOK。マイナスだったら使いすぎ。マイナスの場合は△をつけて、いくらオーバーしたか金額を明確にします。でも近頃では、前日はオーバーしても翌日は控えめだったので、まあOKという感覚も身についてきたようです。

 1週間に一度教室でレシートチェックをしているので今日もざっとながめてみると、20日に靴を買って、24日にまた同じ店で同じ金額の靴を買っています。職場の友だちにでもプレゼントしたのかとも思いつつ尋ねてみると、「大きさが合わなかったからまた買いました。前のは捨てました!」とのことです。えっ?!捨てちゃったの?!えっ?!

「本当は、23.0だけど、前のは23.5で、5違うから」・・・それはそうだけど。
「で、ゴミ箱に入れちゃったの?もう、ごみやさんに出しちゃったの?」
「それは、会社の○○さんが知っています」

 私もそれなりにも講師ですから、「なんでぇ?」「どうしてぇ?」「ダメでしょう~」「もったいないでしょ!」・・・とは言いません。一歩街に出ると、学習課題は、本当にいろいろありますね。でも困りながらも、どこか笑みがこぼれてしまうのです。もちろん、人事だからではありませんし、ばかにしているのでもありません。何ともほほえましいというか、自分で一生懸命に考えているんだな、と純粋なものも感じます。

 彼は休みの日には、会社で必要なものをよく買っているのです。今回の靴も仕事用の上履きです。会社用のティッシュペーパー、掃除用品、修正液など文房具、職場の方のためにめがね拭き、・・・。休日にも仕事や職場のことを考えているなんて、見上げたものです。

 さて、今回はこの出来事を通して何を学べるでしょうか?
・靴は、店頭で履いてみてから買うということ
・サイズの数字の違いのみに反応しているのか、それともたとえ0.5の違いでも本当に大き過ぎたのか
・靴は中敷や靴下の厚さで多少の大きさの調整はできるということ
・サイズを間違えたのなら、取り替えてもらうこともできるということ
・倹約するという意識をより明確にすること
・もったいないという意識を育てること
・困った時には、誰かに相談するということ

 こう考えてくると、今回の出来事の一番の問題は、「靴のサイズを間違えて買ってしまっても、本人は困っていない」というところにあるのかもしれません。「倹約」「もったいない」という意識を育てることが最優先かもしれませんね。困っていないから誰かに相談することもないし、「もったいない」という意識がないからすぐに捨ててしまうし、「倹約」の意識がないからダブルで買うことにも抵抗がない。

 靴に限らず、お金の管理の学習としては、「倹約」「もったいない」というこの2つの意識を育てることがとても大切なようです。今回のことで、私も認識を新たにしました。それにしてもあの靴、今頃どうなってしまっているのでしょう・・・?みんな帰って誰もいない夜の会社のゴミ箱に、さびしく捨てられている様子が目に浮かんできてしまいます。

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342.ほめことば

342.ほめことば
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 生徒さんの反応に対して「うーん!」と唸るのもほめことばです。これをほめ言葉として受け取れる生徒さんも、それはそれで成長している証です。これだけで、講師である相手の意図を感じ取り、その意味するところを受けとめることが
出来ているからです。生徒さん自身も自らの学習にそれなりの手ごたえを感じることが出来ているのでしょう。

 そこまでくれば、その生徒さんの中には学習の評価の基準というか、尺度というようなものが形成されていると言えます。他者からの評価を得る前に、自己評価できているのです。手ごたえを感じるとはそういうことです。学習の評価基準が自己の中に形成されている生徒さんは、自分が納得するまで学習を繰り返します。

 たとえば、漢字は覚えられるまでくり返し書きます。納得しないと、絵でも文字でも文でも書き直します。その場で覚えるべき課題では、覚えるまで睨み、覚えたところで自ら「いいよ!」と言って、見ないで復唱したり書き取ったりします。

 この間生徒さんから、こんな質問がありました。北海道美唄市で「プリンセチア」という花が栽培されている新聞記事を取り上げた時のことです。「プリンセチア」というのは、ピンク系の「ポインセチア」です。名前は「プリンセス」の由来するのだそうですが、・・・で話題となったのは、「美唄市の唄という字と歌とはどう違うんですか?」という疑問です。

 この問いに答えるのはそう簡単ではありません。こちらはイメージとしては分かっているものの、生徒さんの理解できる言葉でいかに伝えるか。そこで、辞書を利用しました。パソコンの電子システムソフトで調べることを心得ている生徒さんは、「私がやります!」と自ら喜んで調べます。歌と唄に加え、詩という漢字も出てきました。これら3つを読み比べ、「ふーん」といっしょに感心し納得しました。

 「家に帰ったら、お父さんとお母さんにも教えてあげてね」と促すと、「はーい」といい返事をします。誰かに話すことによって、理解と記憶はさらに確実なものとなります。

 こんなことを言った生徒さんもいました、「上手と言わないで下さい。うまいと言ってください」。「上手」というのは、どこか幼い感じがするのでしょう。こちらも心して「上手」と言わずに、「うまいですね」「よく考えましたね」「うーん!」・・・という具合に別の表現を心がけました。

 年が長ずるに従って体も成長し、学習を積み重ねることによって心も成長します。体と心の成長に見合ったほめことばが求められるのですね。

 ほめるべき時期に十分にまた適切にほめると、学習を楽しみ、学習に対して意欲的になります。そうすると、次第に学習力が育ってきます。自ら疑問を持ったり、驚いたり感心したり、感動したり。自らのうちに学習のきっかけを持ったときほど学習が身につくことはありません。

 他者からほめられるとか、評価されることを超えて、講師が「うん、うん」と、時には「うーん」と相槌を打つ程度で、自ら学習を進め取り組んでいくことが出来るのです。

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